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量子コンピュータを活用した材料物性シミュレーション技術の開発#2:有限温度シミュレーション技術 - fltech - 富士通研究所の技術ブログ

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量子コンピュータを活用した材料物性シミュレーション技術の開発#2:有限温度シミュレーション技術

こんにちは、量子研究所で量子アルゴリズムの研究をしております松本徳文です。先日2025年3月28日にUvance Kawasaki Towerにて富士通主催のグローバル量子コンピューティングイベント 「Fujitsu Quantum Day」が開催されました。その中で私たちの研究チームの最近の成果をポスター発表しました。前稿「量子コンピュータを活用した材料物性シミュレーション技術の開発#1:量子コンパイル技術」 [1]に引き続きまして、本稿ではポスター発表内容の2点目である有限温度シミュレーション技術(Markov-Chain Monte Carlo with Sampled Pairs of Unitaries, MCMC-SPU)[2]についてご紹介します。

有限温度シミュレーション技術

背景

物質は、温度によって様々な状態に変化します。身近な例では、水は温度に応じて固体・液体・気体と姿を変えます。電気抵抗がゼロになる超伝導など、物質の量子力学的な性質も同様に温度に強く影響されます。このように温度は物質の性質を大きく左右する重要な要素ですが、様々な温度状態にある物質の性質を実験的に調べることは困難な場合があるため、量子コンピュータを使ったシミュレーションが期待されています。

有限温度(絶対零度より高い温度)のシミュレーションでは、熱平衡状態と呼ばれる、エネルギーが安定した状態を計算する必要があります。しかし、熱平衡状態は、非常に多くの状態が混ざり合った複雑な状態であり、量子コンピュータを用いたシミュレーションには工夫が必要です。 現在の量子コンピュータはまだ発展途上にあり、計算に必要な量子ビット数や計算時間に制約があるため、早期の実用化のためには計算に必要なリソースの削減が不可欠です。

新手法の提案

Markov-Chain Monte Carlo with Sampled Pairs of Unitaries (MCMC-SPU)は、量子コンピュータで有限温度にある量子多体系のシミュレーションを行う際に、必要な計算リソースを大幅に削減する新しいアルゴリズムです。 特に虚時間発展と呼ばれるステップを単純な量子回路で代替することで、必要な計算リソースを削減します。虚時間発展とは、熱平衡状態に含まれる様々な量子状態の確率分布を調整する操作です。 従来提案されていた実装方法では、図1(a) のような非常に複雑な量子回路を利用するため、多くの量子ビットや量子ゲートが必要でした。 今回提案したMCMC-SPUでは、虚時間発展の計算を、複数のより単純な計算に分割し、それらを確率的に選択して実行することで、計算に必要な量子回路を大幅に単純化します(図1(b) )。

図1 従来手法と提案手法の概念図。(a) 従来のQMETTSアルゴリズム。(b) 提案するMCMC-SPUアルゴリズム。

従来技術とのリソース比較

計算リソースについて、提案手法と従来手法を比較します(図2)。提案手法の実装では量子回路が分割されて大幅に単純化されるため、制御自由度の補助量子ビットが1個で十分です。例えば、エネルギー1eVで温度300ケルビンの横磁場イジング模型では、補助量子ビット数が1/7に削減されることに相当します。また、回路深さも大幅に削減され、先程と同じ状況では1/40倍に削減されます。更に、トフォリゲートと呼ばれる高コストなゲートの個数も大幅に削減され、結果的に回路あたりの実行時間も短縮されます。例えば先程と同じ状況では、1桁~2桁程度も従来手法より削減されます。 今回例に挙げた模型自体は古典計算機で厳密に計算できるものです。しかし、現実の物質を記述する電子系の模型に適用した場合にも同様の大幅な計算リソース削減が理論的に見積もられるため、古典計算機では到底扱えないサイズの材料シミュレーションが量子コンピュータ上で実現可能になることが期待されます。

図2 MCMC-SPU と従来技術のリソース比較。

数値検証

MCMC-SPUの精度を検証するため、ベンチマークとして古典計算機で厳密に計算可能な模型を用いて数値シミュレーションを行いました。 具体的には、4サイトの1次元横磁場イジング模型についてエネルギーの温度依存性を計算しました。計算結果のプロットを図3に示します。エラーバーは、サンプリングに伴う統計誤差と虚時間発展の多項式近似に伴う系統誤差を含みます。提案手法(黄色のプロット)は、従来手法(青色のプロット)と同程度の精度で、有限温度における物質のエネルギーの厳密値(紫色の線)を計算できることが確認されました。

図3 エネルギーの熱平衡期待値の数値シミュレーション結果。

まとめ

私たちが提案したMCMC-SPUは、絶対零度でないある有限温度における物理量の計算において、特に重要な虚時間発展の計算を複数のより単純な計算に分割し、それらを確率的に選択して実行することで、計算に必要な量子回路を大幅に単純化する手法です。この手法の導入により計算に必要なリソースが大幅に削減され、数年以内に実現する early-FTQC デバイスでも実装できるようになります。 今後の展望としては、物質の性質や量子ハードウェア実機の特性など活かしてさらに計算リソースを削減したアルゴリズムを開発し、量子コンピュータによる実用的な物質シミュレーションの実現を目指していきます。

おわりに

ビジネスと技術開発が融合したグローバルイベントに参加させていただき、当時入社2年目の私にとって非常に貴重な経験となりました。イベントを通して、富士通がグローバルな量子コンピュータ市場で本気で勝負しようとしている熱意を肌で感じ、さらに貢献したいという思いが強くなりました。

また、Fujitsu Quantum Dayに合わせて海外研究所から研究者が来訪し、様々なバックグラウンドを持つ方々と出会えたことも大きな収穫でした。社内外、そして国境を越えて、量子コンピュータの最前線で活躍されている方々と直接議論できたことは、今後の研究活動の大きな糧になると確信しています。

今後も、このようなグローバルイベントや国際学会へ積極的に参加し、自身の研究活動の深化はもちろんのこと、富士通が量子コンピュータ分野でより一層存在感を高められるよう貢献していきたいと考えています。

参考文献

[1] https://blog.fltech.dev/entry/2025/04/17/quantum_materials_simulation1-ja
[2] N. Matsumoto et al., Phys. Rev. Research 7, 013254 (2025)